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大野山から天拝山にかけて広がる筑紫平野には、広大な政治都市が形成されていた。
大宰府中央には、平城京や平安京の朱雀大路にあたる大路が二日市・湯町の方向へつらぬいていた。
これによって郭内を左右両郭に区分し、東を左郭、西を右郭とした。平城京ではこの両郭を 左京・右京とよんでいた。
この左右両郭は、南北に走る線によって各十二坊に区分される。
この坊と坊とを区分する南北の線がそれぞれ通りをなしていたことはいうまでもない。
次にこの南北の線と交差して東西に走る通りを条といい、南北に走る二十四坊を正方形にきり、 北からはじまって一条、二条と数え、二十二条までがあった。
すなわち東西二十四坊、南北二十二条であった。
都城の大きさ自体は平城京の約3分の1程度である。
なお条坊の外郭周辺は城壁をもっていたとも考えられている。
発掘の結果、榎寺周辺から奈良・平安時代にかけての竪穴住居群が発掘されたので、城郭の内部にも 意外と田地が広がっていたともみられる。
山上憶良「貧窮問答歌」の中で詠った悲惨な農民の姿は、こうした住居群に住む農民の姿だったのかもしれない。
また郭内には観世音寺の田地も多く、現在の国鉄二日市駅前の繁華街は観世音寺の田地であった。